「それまで私は、『見えない』ということにとらわれるあまり、その人がその人らしく生きていくということに気が回りませんでした。」
(辻井いつ子、『今日の風、なに色?―全盲で生まれたわが子が「天才少年ピアニスト」と呼ばれるまで』より)
スタンフォードGSBのインフォメーションセッションがあったので、昨日、今日と卒業生として参加してきた。
学校の魅力を伝えるのって難しい、というのが参加した感想だった。
後ろの方の席に座って聞いていると、Global ExperienceとかInnovationとか、一つ一つの学校側の売り文句について、私の脳裏では、過去の素晴らしい経験がよみがえる。目を閉じると、その時の状況が鮮明に思い浮かび、穏やかな気持ちになってくる。しかし、我々が実際に経験した毎日の感動を、プレゼンテーションで伝えるのは難しいだろう。私が感傷に浸っているのに対して、参加者の受験生はExcitedしているというよりは、どちらかというと、緊張して真剣な面持ちだったような気がした。
「カルチャーについて、説明するのって難しいのよね。」といいながら、アドミッションオフィスが、Collaborativeなカルチャーの説明をされた。例として挙げられたのは、二人のMBA生が、一つしかない就職先について、競争するかわりに、戦略を練って、ポストを二つに増やしてもらい、二人とも採用された、という話だった。
たしかに、皆がリスクをとり、リスクをとっている人達の間で、助け合うカルチャーがあり、これが他の学校と一線を画する場合があるというのは事実だ。
しかし、本質ではないのではないかと思う。
学生の多くが、自分の人生の意義について考え、自分自身の人生の著者となって、それを実行しているというのは、学校のカルチャーにならないのだろうか。このような哲学的な側面こそ、本当の学校のカルチャーの本質であると思う。Collaborativeなカルチャーは、このような本質から派生しただけであり、表層に過ぎない。
もっと分かりやすくいうと、自分らしく生きるということ。
例えば、私は、ビジネススクールに入ってから、何か月も、ずっと、気を張る状態が続いていた。「本当にこの集団の中でやっていけるのか」「認めてもらえず、輪の中に入っていけなかったらどうするのか」といったことを気にしていた。なので、人一倍予習をしっかりし、睡眠時間を削って、授業中に気の利いた発言するように心がけた。社交の場にも出来るだけ出席した。社交の場では、何か印象に残ることを言って貢献しよう、と気をもみ続けた。気の利いたことがいえず、会話が途絶えてしまうと、自分の実力に失望した。要するに、日本でいう優等生を演じ続けた。
ふとした瞬間に、このことの問題に気が付いた。
人生で最も大切なことの一つに、気持ちと気持ちがつながる、ということがあると思う。もし、1000億円儲けたとしても、世界をかえるGoogleをつくれたとしても、気持ちと気持ちがつながる瞬間がないのであれば、その人の人生は、生きているとは言えず、単に存在しているだけである。
いつも気が張っていて、結果を出すことにフォーカスしていると、なかなか気持ちと気持ちがつながる関係にはならない。ビジネススクールで、挑戦して挑戦して挑戦し続けて、それでもあきらめずに挑戦をし続けた。その結果として、気持ちと気持ちを伝え合うことを大切にする生き方の大切さに気が付いた。
気持ちと気持ちを伝え合うことを大切にすることに集中するようになってから、「認めてもらえなかったらどうしよう」「本当にやっていけるのか」という気持ちがなくなった。クラスメートとの間で会話が途絶えてしまうこともなくなった。
自分らしく生きるということ。この結果、世間の人が定義する「成功」とか「失敗」とかいった指標は、人生にとって重要でなくなる。世間でいう「成功」という指標が重要でなくなる結果として、他人と競争する必要がなくなり、Collaborativeなカルチャーがうまれる。世間でいう「失敗」という指標が重要でなくなる結果として、Risk Takingなカルチャーがうまれる。また、自分らしく生きるため、他人の目を気にしないから、他人の意見を安易に信じて、自分の信念が左右されるということがなくなる。これは、実は、世界を変える人の条件である(こちら↓)
スタンフォードビジネススクールでは、学生に自分らしく生きてもらい、それによって、意義深い人生を送って欲しいと考えている。
この結果、
「あなたにとって一番大切なのは何ですか」
というエッセイが出題される。
よく、「ビジネススクールで、自分を再発見できた」とか「本当の自分を知ることができた」という人がいる。
確かにそういう一面はあるのだが、自分の人生で一番大切なものは、自分で決定するものである、という点を見誤ってはならないと思う。
「自分が誰か」とか「自分の人生で一番大切なものが何か」という問いに対する回答は、算数の問題のように回答が一意的に存在するものではない。回答を探すものではなく、自分で決定するものである。
仮に、読者が今の自分が大っ嫌いだったとする。この場合、大っ嫌いな自分が、本当の自分の姿なのだろうか(つまり、これをエッセイに書くのだろうか)。そうではなく、自分に新しい名前を付け直せるのかを考えるのである。そして、新しい名前を白い石の上に書き、机の上においておいたら、どうすれば、理想にそった人生を生きれるのか、ということを考えることによって、人生で一番大切なものが決まる。
死んで人生を振り返ったとき、どういう自分に出会いたいかを考えれば、理想の自分に出会えるだろう。
明日、地球が滅亡するとしたら、読者は何をしたいだろうか。
伝えられなかった思いを伝えるのか、
大事な人の傍でただ時間を過ごすのか、
困っている人を助けてあげたいのか、
ちなみに、映画、「最高の人生の見つけ方」では、
美しい大自然の中に骨を埋めたい、とか
したことがない経験をしてみたい、
といったことに重点をおいているようだ。
人間にとって本質的に意義があるものは、手と足の指で数えるほどしかない。その中で、何を選択し、どう優先順位をつけるのか考え始めたとき、自分の人生の著者になることができる。
インフォーメーションセッションに参加していた受験生が、「スタンフォードに留学して、あなたは何が変わりましたか」と質問した。
「自分の人生の著者になり、人生という作品をどのような色合いを組み合わせてつくっていきたいのか、考えるようになり、それに従って、行動を始めるようになった。私は人生、挑戦し続けたい。倒れても倒れても起き上がりたい。その中で、他の人と心が通じ合える瞬間を大切にしたい。そうすることで、色彩豊かな人生を送れると思うようになった」
自分だったら、そう応えたと思う。
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Posted by Viral Thread on Tuesday, January 6, 2015