2015年4月25日土曜日

Stanford MBAのリユニオンでのスピーチ

Stanford GSBでは、5年に一度、リユニオンが行われ、今年は4月30日から5月3日まで、私のクラスが集合する。そこで、5年間の出来事を8分間でスピーチするTalkというイベントがあり、8人のうちの一人に選ばれた。

振り返ってみれば、あっという間の5年間だった。



スタンフォードビジネススクールの特徴の一つに、各分野のエキスパートとの素晴らしい出会いの機会があることがあげられる。私の場合、ベルラボの科学者で、インド人のオマール(仮名)というかけがえのない友人が出来た。オマールと私は、ある日のこと、農作物の水の使用量を激減させ、砂漠を緑に変える素晴らしい技術を発見し、一緒に起業することになった。モース(仮称)という会社だ。


モースを起業する過程で、私は、親友を失ったが、人生の意義を再発見することが出来た。


親友と一緒に起業をするというのは、良い点も悪い点もあると思う。

オマールと私は、出会ってすぐに仲良くなり、毎日ビールを飲み、夢を語らいあい、コンピュータプログラムを書き、新しい技術をみつけてはアイディアを取り交わした。しかし、創業期のスタートアップの性質上、彼に給料が出せなかった。そのうちオマールは、「破産しそうなので、働くどころではなく、資金繰りと借金取りに追われている。会社のために時間はさけないが、このまま席はおいておきたい」と言ってきた。

投資家からは、彼を首にしなければ、会社のモラルが下がるから、追加の投資は入らないよ、と脅された。

毎日寝れない日が続き、アドバイザや友人、教授から助言を受けた末、決心がついた。一か月2万円という破格の家賃でオマールがモースのために探してきたラボ。そのラボに、彼と一緒にすわり、モースを辞めて欲しい、と決断を伝えた。

結果、オマールは、行方をくらまし、全く連絡がつかなくなってしまった。

あのときの決断には後悔している。困っている人に辞めてもらうべきではない。unpaid vacationをあげ、株のvestingをとめるのにとどめるべきだった。


また、共同創業者は、首にするべきではない、とのレッスンを学んだ。本当に困ってしまったときに、助け合えるのは、心を交し合った創業者同士だけだからだ。


「本当に困ってしまう」状態は、予期せずやってくる。


ある日のこと、モースの資金が底をつきかけたので、梃入れをし、投資を集めるために、プロの経営者を雇った。リン(仮称)という名前だった。誰でも聞いたことのある大手企業の最高責任者の一人だった。シリコンバレーの巨人だ。

シリコンバレーの巨人を雇うことには、代償も伴う。感謝祭の休暇中に帰省し、シリコンバレーに戻ってきた後、オフィス代わりに使用していた超大手弁護士事務所ドラゴンソンシーニ(仮称)に出社すると、受付で、「YIが10時35分出社しました」と記録をとられた。

何だろうと、オフィスに入ると、ドラゴンソンシーニの最高執行役のドナドナ(仮称)が、リンと一緒に微笑を携えながら座っていた。「今日をもって、即日づけで、あなたは首です」と告げられた。取締役会の半数の議決権は、私が掌握していたので、首には出来ない旨を告げ、この場は私が勝利をおさめた。

リンは、本当に強い相手だった。権力争いは、資金集めをする中、数か月間続き、オマールを失った私は孤独だった。

あのとき何故オマールに残ってもらわなかったのか、と何度も何度も悔やみ、眠れない日が続いた。

そうこうするうちに、モースには資金が無事に入り、モースは生きながらえることができた。

ある日のこと、奇妙なことがおきた。私からは何も言わないのに、はじめて会った黒人の青年が、「君が瓦礫の中で、立っているのが見えた」といってスケッチをかいて持ってきた。私が瓦礫の中に立ち、何か筒状の容器のようなものの中で、王冠をかぶっている姿が描いてあった。

奇遇なもので、私には、福島第一原発に放射性廃棄物を除去する製品を直接納入している(おそらく米国では唯一の)会社からラブコールが、かかっていた。

自分の人生にとって、何が一番大切なのか、良く考えてみた。自分の会社よりも、福島の方が大切ではないだろうか。自分の会社は、経験豊富なリンに任せた方が、うまくいくのではないか。

ビジネススクールに留学するとき、自分にとって何が一番大切か、エッセイを書かされる。エッセイには、「自分は、人生を目的をもって生きていきたい(I want my life to be purposeful)」と書いた。モースには、砂漠を緑化し、温暖化、食糧不足、水不足のすべてを解決するポテンシャルがあり、社員全員、その目標に向かって一丸となって働いていた。だが、トマトが育つのを待つのには時間がかかる。

色々と考えているうちに、私は、自分の人生は、船を、虹色の洋服を着て、漕いでいくようなものなのではないかと思うに至った。自分の人生が色彩豊かなものになって欲しい。トマトが育つのを待つ時間が惜しかった。毎日、新しい挑戦をし、社会の役に立っているという実感が欲しかった。

私は、会社の経営をリンに任せることにし、自分は、アメリカの技術を日本に導入し、福島と日本の復興に専念することにした。


日本経済は、私が小学生の頃にバブルが崩壊し、そのあと、上手くいっていない。経済が麻痺すると、苦しむ人がたくさん出てくる。正社員になれない人が増えると、社員教育の機会も減り、結果として、学校で得た素晴らしい教育も、時が経つにつれ、薄れ、いずれは無駄になってしまう。負のスパイラルがうまれる。

私は福島の問題を解決するとともに、日本の経済も回復させたいと思った。

日本の問題を、マクロレベルでみると、供給能力が需要を大幅に上回るため、金利をゼロまで下げても、投資や消費をしようという需要が生じないことにある。

「この道しかない」というアベノミクスは、インフレ(の期待)によって、「ゼロ金利でもだめなら、マイナス金利に」ということで、実質金利をマイナスにすることで、これを解決しようとするものだ。

「この道」ではない「あの道」はないだろうか。アップルがiPhone, iPodをうみだしたときには、新しい需要がうまれた。

日本では、原発がとまり、当時は30%ともいわれた電力供給がなくなってしまった。同時に円安で燃料の輸入費用も高い。また、様々な人の人生が影響を受けた。


福島の問題を解決する過程で、シリコンバレーでアントレプレナーとして戦い鍛えてきた経験をいかし、新しい需要をうみだすことが、自分の次のミッションだと思う。




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以上の記載は、問題にならないように、一部、名称や事実関係を変えることで、フィクションとした。