2016年1月17日日曜日

人生の意味


スタンフォードビジネススクールのセカンドラウンドの出願の締切が過ぎた。サードラウンドで出願する人は稀なので、殆どの残りの受験生は、この秋か来年の1月に受験することになると思う。

 

そこで、難しくて評判の出願エッセイ「What matters most to you and why?」について色々と考えてみたい。

 

合格するには、このエッセイを上手に書けることが必須となる。なぜだろうか。実は、これは学校の戦略の根幹とかかわっている。

 

スタンフォードビジネススクールも、別に教育をボランティアでしているわけではなく、ビジネスなので、当然、お金を儲けようと考えている。ビジネスを教える学校だけに、その考え方はイノベーティブである。すなわち、学校では、成功した卒業生が、「スタンフォードビジネススクールから卒業したから、成功した」と思い、大量(多い人では100億円以上)の寄付をしてくれることで儲けることを期待している。

 

上記の目標を達成するためには、学校としては、以下が必要となる

・将来、卒業した後に、「一部」の学生が大成功する(全員ではない)

・卒業生の高い愛校心

・卒業生が人生にとって一番大切なことが何か分かっていること(最後の点については、難しいと思いますので、後で説明します)

 

一点目についてだが、よく、「シリコンバレーのベンチャーキャピタルは、一握り(10件に1件程度)の、リターンが数十倍以上の投資で儲けている。投資リターンが2、3倍にしかならなかったような投資は、ファンドの成功に寄与していない。この原則が分かっているので、リスクの高い投資をすることも出来る」という議論を聞いたことがあると思うが、これと同じ考え方である。

 

さて、それでは、学校としては、「一部」の卒業生が大成功するために、どのような受験生を合格させれば良いのだろうか。

 

スタンフォードビジネススクールに在学中に、インテルの元CEOのアンディ・グロー授業を取る機会に恵まれた。今では古典となった有名な著書「High Output Management」で、人が大きな結果を出すためには、「能力」と「モチベーション」の二つが必要であると述べている。

 

スタンフォードビジネススクールは、「能力」は、学校で教えられると考えている。最高の先生に高い報酬を払って、来てもらうのだ。カリフォルニアの天気は最高だし、校舎は綺麗。まわりはシリコンバレーで研究材料も豊富なので、教授が「スタンフォード大学に転職したい」と思う動機は高い。そして、学生が先生を採点するシステムを採用することで、良い先生ばかりが学校に残るように工夫している。

 

では、「モチベーション」はどうだろうか。ここで注意する必要があるのが、上記の学校の戦略にそって考えてみると、この場合の「モチベーション」とは、単に「自分の能力や結果を高めたい」という「モチベーション」だけでなく、「リスクをとることを厭わない」モチベーションであることに注意する必要がある。すなわち、学校の戦略は、以下のような仮説を前提としているのである。

 

仮説:

·         受験生をAグループとBグループの二つのプールに分ける

·         AグループとBグループの受験生の能力は、同じと考えられるとする

·         Aグループの各受験生のリスク選好度は、Bグループの各受験生のリスク選好度よりも高いものとする

·         このとき、Aグループの受験生ばかりを合格させた方が、期待収益は、Bグループの受験生ばかりを合格させるよりも、大きい。また、Aグループの全体収益が、結果として大幅に少なくなるリスクは極めて小さい。


上記の仮説は、直観的には、以下のようにその合理性を説明できる。

1.    統計学上の説明:Aグループの各個人がとるリスクについて、そのリスク間の相関関係が低ければ(すなわちAグループの合格者のDiversificationが大きければ)、Aグループから十分な数の合格者を出すことで、統計学上、(分散できるリスクは消滅するので)リスクは最小化される。なお、(実はこの前提はすべての卒業生には成り立たないのだが)卒業生は、リターン(期待収益)にみあわないリスクをとらないことを前提におくことが出来るのであれば、リスク選好度が高いAグループの方が、リスク選好度の低いBグループよりも、期待収益は大きくなる。

2.    教育学上の説明:教育学上、リスクをとる程、学習が進むとされているので、現時点でAグループとBグループの能力が同じでも、10年後にはAグループの能力がBグループの能力に勝っている、という仮説がたてられる(”The fastest way to succeed,” IBM’s Thomas Watson, Sr., once said, “is to double your failure rate.”Richard FarsonRalph Keyesのハーバードビジネスレビューの論文”The Failure-Tolerant Leader”に記載されています)

 

さて、それでは、学校は、「高い能力を取得したい」とか「リスクをとりたい」といった「モチベーションを高める」ことは出来るのだろうか。

 

そもそも、「モチベーション」は、どのように高めるのか。アンディ・グローブの「High Output Management」は、製造工場のアウトプットを高めるための様々なモデルを、製造工場だけではなく、ビジネスに応用することに多言する本である。この本の中では、人の「モチベーション」は、アブラハム・マズローのモデルに従うとしている。そして、著書中に、ハーバードビジネススクールの学生のチャックが、マズローのモデルに従って、どのようにモチベーションが高められたかどうかという説明が加えられている。マズローのモデルでは、モチベーションは、5段階のステップを踏む。1段階目は、Physiologicalであり、衣服や食べ物が得られるかどうかというステップ。2段階目は、Safety/Securityであり、(例えば健康保険を持っているかどうかといった)身の安全を確保できるかどうかというステップ。3段階目は、共通の目的・嗜好・性質をもった人々とのかかわり(Social/Affiliation)。4段階目は、褒められたり認められたりすることによるEsteem/Recognition5段階目は、例えばアスリートやバイオリニストが黙々と練習を繰り返して能力を上昇させるSelf-Actualization。アンディグローブは、Self-Actualizationに到達することで、モチベーションがリミットレスになる、と説明する。そして、ハーバードビジネススクールの学生チャックが、例として、登場する。チャックは、最初、ハーバードビジネススクールの激しい競争の中で、生き残れるかどうかという一段階目Physiologicalにいる。その後、皆が同じ状況にいる気が付き、勉強会のグループをつくり、二段階目Safety/Securityに移行する。そのうち、クラスがグループとしてカルチャーをもつようになり、チャックは、三段階目Social/Affiliationに移行する、というのである。スターウォーズにも登場したハーバードの卒業生のナタリー・ポートマンやハーバードのAmy Cuddy教授も、同じような話を以下のビデオでしているので、おそらく本当にそういう環境なのかもしれない。

 


 

 

さて、ライバル校のハーバードビジネススクールを「工場」と批判するスタンフォードビジネススクールでは、グローブ氏の解釈するマルローのモデルは、第一学期を除いて、成立していない(ただし、これはクラスの中だけの話であり、マルローのモデルを経営のツールとして如何にして使用するかどうかということ「も」教えるクラスはある。Managing and Building Sales Enterpriseという超人気クラスである。このクラスは色々なことを教え、グローブ氏の解釈するマルローのメソッドについては、「各セールス担当者の営業成績は公開することで、各人のモチベーションがあがるので、公開すべきである」と先生が授業中に一言述べるだけであり、別段、マルローのモデルを教えるクラスというわけではない)。スタンフォードビジネススクールでは、第一学期では、ほぼ全員退学しないかどうか必死なので、マルローのモデルが成立する。第二学期以降は、ほぼ全員が退学しないことが分かる。

 

二学期以降は、スタンフォードビジネススクールの学生は、「自分の人生の著者となり意義深い人生を送るためには、どうしたら良いのか」と考え始める。そして、人生の意義というのは、人それぞれが人生の著者として選択するものであり、グローブ氏のいうアウトプットに注力するのは、(工場では大事であっても)人生の生き方としては無駄である、と考えるようになる。グローブ氏のモデルとは異なり、このモデルでは、自分にとって意義深いことをしている時間が、最もモチベーションが高い時間ということになる。モチベーションとは、Fulfillmentによって与えられるものであり、人生は、多様なFulfillmentをもたらす価値観を理解したうえで、それぞれの価値観に費やす時間を、人生の著者としてバランスをとる場である、という考え方となる。ここでは、Fulfillment及び(時間の配分の)バランスが重要となり、これを達成するためのプロセスが重要となる。グローブ氏の解釈するマルローモデルでは、バイオリニストやアスリートが結果(Achievement)を出すことに注力しているのと対照的である。

 

グローブ氏の本に登場するハーバードビジネススクールの学生のチャックと比較するため、スタンフォードビジネススクールのクラスメートのダレンを例に取ろう。ダレンは、米国の非公開企業で最大の企業の会長の長男。在学中に、潰れ掛けの医療器具の会社の社長に就任し、会社の立ち直しに注力することに生きがいを感じるようになる。世間でいう「成功」を度外視したダレンは、ついに、超人気授業について、授業のすべて及び試験までを欠席した。彼は、当然、当該授業で「不可」がつくだろうと予想していたところ、巨大企業の会長の息子なので「不可」がとれなかったと(自分ではなく自分の家が評価されていることが分かったので)嘆いていた。同じような話が、クラスメートのプージャがニューヨークタイムズで紹介された際にも載っていた(こちら)。上記はビジネスの例だが、実は、殆どの学生は、クラスメートとの深いつながりを重視し、Touchy Feelyという他人との感情のやり取りばかりをする授業(授業中に多くの学生が泣いてしまう)が最人気授業である。

 

アンディ・グローブの解釈するマルローモデルの最大の問題点は、人間を、Self-Interestedな存在として捉えている資本主義の価値観にある。ハーバードビジネススクールを「資本主義の士官学校」と呼んだ方がいらっしゃるが、実は、スタンフォードビジネススクールは、資本主義の士官学校ではない。

 

これは、人生で最も大切なものは、Self-Interestだけな人には、手に入らないからである(と少なくとも私は思う)。だから、What matters most to youという質問に、Moneyと回答したら、どんなに上手にエッセイを書いても、合格しないだろう。お金を生み出すだけのロボットはクラスメートにいても学校のカルチャーにフィットしないからである(「どのような組織であっても、カルチャーにフィットする人のみを採用するべきである」と一学期で習った)。

 

シュバイツァーは、以下の名言を残した。「The only really happy people are those who have learned how to serve」(本当に幸せなのは、他の人にどのようにして与えるのか、ということを学んだ人だけである)。他の人に何かをしてあげたとき、幸せ、という感情を享受できる、とシュバイツァーは述べているのである。幸せ、という感情をもっているとき、人は、ロボット(存在しているだけ・空虚)ではなく、本当に生きており、満たされている存在となる。

 

Touchy Feelyが超人気授業なのは、他の人と感情をシェアしている瞬間が、自分が生きている、と実感できる瞬間だからである。もし、ある人に感情がなければ、工場で製品は生み出せても、生きている、と実感できないだろう。このような人生は空虚であり、存在しているだけである。デカプリオ主演の映画のWolf of Wall Streetをみたことがあるだろうか。主人公は、アンディ・グローブの解釈するマルローのレベル5の段階で、突き動かされたように進んでいく。派手な人生だが、空虚である。工場でお金を生み出し、そしてその金を(セレブを呼んだプールパーティなどで)消費するマシーン。どんなに突き動かされたように進んでも、進んでも、決して満たされることはない。

 

Fulfillmentについて、私のエッセイ合格ガイドブック(過去のブログを参照)と別の切り口で説明すると、以下のように考えられるのではないだろうか。

・自分の人生の中心として何をすえるのか。すなわち、何に時間を使い、プライオリティをおくのか。例えば、家族なのか、仕事なのか(クラスなのか、起業なのか)。

・どんな人として生きていきたいのか。(何をするのか、ではなく、どういう人なのか、ということ。具体的には、例えば、正直なのか、約束を守るのか、といったことである。別の例では、Wolf of Wall Streetに出てくるような浪費家なのか、それとも、森鴎外の小説『高瀬舟』に登場する喜助のように「足ることを知っている」のか)

・他の人に何をしてあげたいのか。自分に与えられているもの(才能など)のうち、どれを使って、他の人に貢献するのか。

・他の人とのつながりについて、どのような人とつながっているのか、何をコミットするのか、他の人のために何を犠牲にするのか。なお、スタンフォードビジネススクールでは、他の人との関係について、5段階で考える。一番低い次元は、挨拶するだけの関係。二番目の次元は、それよりも少し長い会話。三番目の次元は、問題の解決や分析に関する会話(仕事の会話など)。四番目の次元は、感情のシェア。一番高い次元は、お互いの関係に関する感情のシェア(例:あなたを大切に思っている、と言及したり、最も仲良くなりたい、と手紙を書く)。詳しくはこちら

 

与えられる側なのか、与える側なのか。マルローのいうRecognitionが欲しい、というのは、与えられる側である。しかし、シュバイツァーが医療を与えるとき、見返りがなければ不幸せだろうか。親が赤ん坊に食べ物を与えるとき、見返りがなければ幸せになれないだろうか。

資本主義・経済学では、「幸せ」でさえ、金銭価値に換算できるので、人間はSelf Interestedだというモデルは成立するとする。すなわち、シュバイツァーが医療を与えるとき、親がミルクを与えるとき、他人が幸せになったのをみて、自分も幸せになる(ここまでの命題は正だろう)から、したがって、そもそも、自分が幸せになるために子供にミルクをあげたのである(この命題の成否は否だと思う)と説明することになる。これは間違っていると思う。シュバイツァーは、そもそも(自分が幸せになりたいという)見返りを求めずに医療を与えるから、だから、幸せになるのである。まずSelf Interestedを否定する境地に至った人が、本当に他人のためにサービスを提供する際の喜びと、自分のことしか考えていない人が他人のためにサービスを提供する際の喜びとは、比較にならないのである。
 

ところで、グローブ氏の例に出てくるバイオリニストや(特に個人競技種目の)アスリートは、仕事において、人生の意義を持てないのか、という疑問が出てくる。それは常識に反する。確かに、子供の音楽家やアスリートには機械のように親やコーチに言われることに従って生きている子供もおり、この子供は、本当に生きているという実感を感じる機会は少ないかもしれない。また、大人の音楽家やアスリートには、お金のために仕事をしている人もおり、やはり、人生の充足を感じる機会は少ないだろう。しかし、音楽家やアスリートには、多く、人生の充足を感じている方がいる。例えば、こちらは顔を見れば明らかだろう。

 





これは、次のように考えられる。上のリストをみてみよう。例えば、「どんな人として生きていきたいのか」という問いに対して、上記のビデオのバイオリニストは、(作曲家に対して)「誠実な」人であろう。また、他人に対する関係という意味では、第二次世界大戦中に、ナチスの進行による空襲警報中に、観客に対するコミットメントを果たすために、演奏をし続けたバイオリニストの話が残っている。

 

さて、このようにして一生懸命自分の人生の意義について考え、自分の人生の著者になった人は、それに従って生きていくことこそが、「成功」だと思うようになる。世間(materialistic world)がいうお金が成功だとは思わないので、お金を損するかもしれないようなリスクをとることが出来るようになる。(そして、人生の意義は人それぞれなので、学校のポートフォリオとしてみると、卒業生がそれぞれとるリスクの間の相関関係が低くなり、卒業生個人個人に特有の分散可能なリスクが消滅する可能性が高くなる)
 

さて、この投稿の一番はじめのところで、スタンフォードビジネススクールの「成功者から寄付を集める」というビジネスモデルが成立するためには、合格者が、「何が自分にとって一番大切か、深く考えている必要がある」と述べた。そして、その理由を後で説明すると述べた。

 

Wolf of Wall Streetの主人公を思い出して欲しい。大金持ちでも、自分の人生の意義が分かっていないので、いつも満たされていない。満たされないので、更に金に走る。こういう人は、寄付をせず、自分のために金を使う。

 

何が自分にとって一番大切なのか、深く考えた人は、他の人に与えることで喜びを受けられると分かっている人である。次の世代のために寄付をし、皆から尊敬され、感謝されるだろう。

 

スタンフォードビジネススクールでは、戦略は、目的とそれを達成するための方法が、Congruent(有機的に結合していること)でないならないと習う。一部の成功者から多額の寄付を集めるという目的。寄付金で優秀な教授を集め、最高の授業の提供を目指す。自分の人生の意義を分かっている人を合格させ、(人生の意義が分かっている人はモチベーションが高く、金銭面でのリスクを取ることを厭わないので)リスクをとるようにチャレンジ精神の空気を吸わせる(空気を吸わせるには、周りの人がチャレンジしていれば良い)。本当に人生の意義を考えた人は、与えることの喜びを知っているので、寄付を厭わない。そして、寄付だけではなく、上記の戦略の結果として、多数の本当に幸せな卒業生を輩出するのであれば、それはそれは素晴らしいことであろう。
 

なぜ、What matters most to you?のエッセイが合格に必要か、エッセイを書く際に何を考えるべきか、お分かりになられただろうか。